大黒様


鎌倉支部ホームページでは、ご本部、各支部、出張所、集会所、各ご家庭におまつりされている大黒様のお写真、大黒様に関するみ教え、他、大黒様にまつわる様々なエピソードなどをご紹介しております。


大黒様について

(大黒様祭のお膳…鯛の塩焼き、自然酒、他)
(大黒様祭のお膳…鯛の塩焼き、自然酒、他)

大黒様のお祭りの仕方

・平素は、お茶を供え、神名を奉誦する

・六十日に一回、お膳を供え、天津祝詞を奏上する

 

お祭りの仕方は、平素は、お茶をお供えします。そして「メシヤ大黒天守り給へ幸倍給へ」と二回奉誦します。頭を下げて、〝お金を運んでください〝とお願いして「惟神霊幸倍坐せ」で良いです。拍手は三回です。また、六十日に一回、

「きのえね」の日には、ご馳走をお供えします。特別にお膳を用意しておくと良いです。鯛を焼いて、添えてください。お酒も上げてください。

そして、天津祝詞を奏上してください。(メシヤ講座より)


H30年度 大黒様祭(きのえねの日)

2/1(木) 4/2(月) 6/1(金) 7/31(火) 

9/29(土) 11/28(水)

 


 

御教え

・・・大黒様の由来を御教え願いたいのですが。

これにはいろんな伝説がある。が、その中で割合信じられるのは、最初日本で天照大神が生きてられたとき、インドから一人の偉い人が渡って来て家来にしてくれと言ったとき、大神はもっと柔和な顔になったら家来にしてやると言われたので、笑顔をしてお仕えするようになった。そしていまでいう財政を司ったという説がある。これが伝説の中では一番いいでしょう。

私が大黒様をお祀りし出したのは大森時代、ちょうど不景気な時代でもあり、毎月赤字であった。こっちは懐も淋しくてやりきれなかった。ところがある銀行員が大黒様を持ってきていらないかと言うので、私も気に入って祀り出した。その像の裏には文久何年とか書いてあった。するとその月から赤字がなくなってしまった。

これはいいというわけで、それからは大黒様を何種類も集めましたよ。上野毛の大きな大黒様には神秘がある。四、五百年経ったもので、麻布の古道具屋から手に入れたんです。これをくれというと主人が、これは自分自身で拝んでいるんだから上げられないとて断られたが、後でその主人が夢をみて、大黒様が紫の雲にのって出ていかれる姿を見たそうですが、その年の大晦日に自動車で私の所へ持ってきたんです。そのとき主人は別れを惜しんで大黒様に抱きついて泣いてましたよ。たしかそのときは三〇〇円包んでやりました。そのときから金がよく入るようになった。

大黒様をお祀りするといいですね。大きなのほどいいですよ。この前渋井が大きなのを作って開眼してくれと言ってトラックで持ってきました。男四人でやっとかつぐんですよ。そのためか渋井の所はバカに金が入る。一月二月なんかたいしたもので、人に話しても信じられないくらいです。いくらかそんなこともあるんでしょう。

不動銀行の牧野という人はたいへんこれを集めてます。大黒様の夢知らせで、関東大震災のちょっと前、日本銀行の公債一〇〇〇万円を不動に預け入れた。行員は変に思ったが、間もなく震災でほかの銀行が支払わないのに不動だけは支払ったので一度に信用を博したそうです。

たしかに大黒様はいいですね。いろいろ神秘がありますよ。治療所も患者が大勢来て金がたくさん入ればいいんだから祀ったらよい。大黒様はいわれよりも御利益があればよい。

大黒と恵比寿と対でもいいが大黒だけでもいい。あの木槌は土からの財、恵比寿のは海からの宝を意味してるんです。

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だから救世教では大黒様を祀ってますが、あの大黒様にやはり大黒様の霊が憑るのです。そうして働くのです。その場合大きいほど働きが大きくなるのです。

そうかといって、相応の理ですから、そこの床の間や御神体に対して、ちょうど釣り合いのとれた大きさが良いのです。あんまり小さいのはお働きがまだ小さいのです。

それから作の良い物ほど階級の良い大黒様が憑るわけです。私は大きいのが良いと言ったので、渋井さんが大きいのを持ってきたことがありました。なにしろトラックで何人かで運んだのです。もっともその当時は渋井さんの金のはいるのはたいへんなものでしたから、やっぱりそれだけの御利益はあったのです。

ではオレの所も大きいのを、と言っても、それはいけないのです。それはやっぱり相応の理ですから、大き過ぎても困るのです。まずちょうど良い範囲において大きいというのが良いのです。

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麹町時代

 


前項の如く、私は昭和三年から昭和九年迄六年間、霊的研究と相侯って、神霊療法による病気治療の確信を得る迄に至ったので、之を引提げて世に問うべく決意した。

そこで、其頃の東京市の成可(なるべく)中心を選ぼうとして、麹町平河町に、ピッタリ条件の叶った貸家があったので、そこを借りて、信仰的指圧療法という建前で治療所を開業した。そこを応神堂の名をつけ、五月一日から始めたのである。最初は一日数人位の患者でしかなかったが、漸次殖えるに従って段々手狭になって来たので、麹町半蔵門に私が経営した大本教の分所を利用する事となった。

恰度その頃私は大本教を脱退し、右の分所は私の自由になったからで、そこを治療所とし、毎日通って治療に従事していたのである。処が、『奇蹟物語』にかいた霊写真の奇蹟が表われたのが十月十一日であった事と、病気が治った信者の卵のような人が相当出来たので、一つの新しい宗教団体を作るべく計画し、漸く準備も出来たので、

その年の十一月二十三日仮発会式を応神堂で執行し、翌十年正月元旦半蔵門の出張所で、正式の発会式を行ったのである。名称は大日本観音会といった。

茲で大黒様に関する奇蹟を一つかいてみよう。よく人に聞かれる事は、本教の信者は必ず大黒様を祀るが、観音様とどういう関係があるかと訊かれるが、之は尤もな話で、今日迄そういう行り方は世間になかったからである。

私が大黒様を祭り始めたのは斯ういう訳があった。確か昭和八年だと思う。数ヶ月赤字が続いた事があったので、些か心細かった処、時々私の処へ来る或銀行員が古い大黒様を持っているが、差上げたいというから、私も快く貰って、観音様のお掛軸の前へ安置した処、その月から赤字がなくなって、段々金が入るようになった。

そこで、私も成程大黒様は確かに福の神だという訳で、それから大黒様を人に頼んだりして出来るだけ集めた。一時は五十幾つ集まったが、観音会が生れて間もなく或日部下の一人が、麻布高樹町の或道具屋に等身大の素晴しい大黒様があるとの報告で、早速私は見に行った処、成程時代といい、作といい実にいい、売るかと聞いた処、之は売物ではない自分が信仰しているのだから勘弁してくれろと言うのでやむなく帰った。それが十二月の半頃であった。

すると面白い事には、大晦日の日、道具屋から電話がかかった。「先日の大黒様はお譲りしてもいいが、思召があればすぐにお届けをする。」というので、私は欣喜雀躍した。その晩自動車で届けられ、早速御神前へ安置した。その時の道具屋の話が面白い。「先生が御覧になった数日後夢をみた。それは大黒様が紫の雲に乗って自分の家からお出かけになったので、眼がさめてから、これはもう自分との縁は切れたものと思ったが、未だなかなか思い切れなかった。

処 が今日の大晦日はどうしても追つかないので、手放す事になったのである。」という。私は、「いくらか。」と訊くと、「そういう訳だから幾らとはいえない。包金で結構だ。」というので、私は物価の安い其頃であったから、三百円包んでやったのである。処が彼は帰りがけに哀惜の情禁じ難いとみえ、大黒様にすがりついて、ボロボロ涙をこぼしていた。

其事あって以来収入が俄然として増して来たという事実は、全く大黒様のおかげとしか思えないのである。お名前は、「みろく大黒天」とつけた。麹町時代、玉川時代来た人はよく知っている筈である。

此大黒様を写真に写した事があるが、其際はっきり円光が表われたので、当時信者の乞いにより数百枚頒布したのである。これでみても普通の大黒様ではない事が分る。製作年代は豊臣時代と思われ実に名作である。